誰もが自分の人生をより良いもの、楽しいものにしたいと考えていると思います。
今を一生懸命生き、日々多くの辛い事をこなし、築いた時には、精神的にも肉体的にも限界を迎えてしまっている。
満足のいく人生を歩むことは難しいと、多くの人が考えていると思います。
少なくとも、過去の僕はそうでした。
今回はそんな僕の過去を振り返りながら、現在の暮らしと、より良い人生を歩むために必要な考え方を、オーストラリア人の妻から教わったことと合わせながら、皆様にシェアできたらと思います。
- 日本のWEB制作会社で働いていた地獄の日々
- お金を貯めるために転職を決める
- オーストラリアへ旅立つ
- オーストラリア人の妻から教わった人生に必要な考え方。イージーマインド
日本のWEB制作会社で働いていた地獄の日々
高校を卒業後ぼくはデザインの仕事がしたく、デザインの専門学校へ入学することを決めました。
そこで未来性があるという理由から、ウェブデザインの仕事を視野にいれながら表面的なコーディングを独学で学びながら、デザインの基礎を学んでいきました。
努力が実ったのか、卒業の年、会社説明会に訪れた企業の一社から内定のお話をいただき、そのままそのウェブ制作会社へ入社することに決めました。
会社説明の時、社員の方々の印象はとてもよく、会社理念なども、社員を大切にする会社、や残業一切無し。
など、とても魅力的に思えるもので、入社前から僕はとてもわくわくしていたのを覚えています。
しかし、入社数ヶ月たった頃、仕事を覚えていくのと同時に仕事量も増え、コーディングから簡単なデザイン制作、クライアントとの打ち合わせと、多くの仕事に携われる事への嬉しさとは裏腹に、毎日の残業と小さなミス一つに対しての厳しい社長からの指摘に、僕の体力とメンタルは徐々に悪化していきました。
日々残業が増えていく中、会社への通勤時間は1時間もかかるため、朝の7時に起き、8時半ごろから仕事をスタートさせ、仕事を終え、家につくのが11時という日々の繰り返。
1年近くそんな生活を続け、できることが増えているにも関わらず、僕個人の会社からの評価は上がるどころか、小さなミスが多いといった理由で給与を下げると脅され続け「その小さなミスが会社に大きな損失を与える恐れがある」と毎日のように言われ続けました。
当初の僕の手取りはわずか10万ちょっとで、ぼくは自分の社会的な価値はそんなものなのかと考えるようになりました。
それでも僕はこれは試練だと信じ込み、2年と半年ほど働いたとき、ある事件が起きました。
それはクライアントのパーティーへ出席した時のこと。
イベントは月に2、3回ほどあったのですが(一回の会費が約5000円で自費)
それへ出席することとなり、いつものようにクライアントの方々へ挨拶をした後イベントにお客として参加しイベントを盛り上げるという役をしていました。
そんなとき、たまたまクライアントの新人の女性から話しかけられるタイミングがあり、多くの共通点を見つけ話が盛り上がってしまいました。
この状況を見た別のクライアントから、社長のところへ連絡がいき、後日社長から呼び出されることに。
内容は「会社の代表としてイベントへ参加したにも関わらず、若い女の子とイチャイチャしていて、仕事をしていない」
というものでした。
僕は愕然としました。
話したのは事実ですが、イベントの時間は約3時間ほどあったのに対して僕が話していたのは長く見積もっても5分程度。
しかも会社としてやるべき、クライアントへの挨拶。イベントを盛り上げる(ステージの上に立ってパフォーマンスをするや合いの手を率先してやる)といったことは完璧にしていた。
にも関わらず社長はそこへは目もくれず、そのたった5分程度の出来事を厳しく指摘し、挙句の果てにどう落とし前をつけるつもりだ
と畳み掛けてきました。
確かに会社の代表として行っていますが、残業代もでないうえにイベントの参加費は実費。
3時間以上休日の時間を拘束されているということへの感謝は一切なかった。
そして社長からの提案が
仕事内容をトイレ掃除のみにする
というのと
頭を丸める
でした。
僕は悔しくてその日の帰り車の中で泣いていたのを覚えています。
当時の僕は
残業代はでないのは当たり前
イベントへ参加できることは光栄なこと
仕事を降っていただいていることは感謝すべきこと
と洗脳されており、そういう業界だからしょうがないと思い込んでいました。
いまいえばすべて異常だと思えます。
その日僕は次の仕事を見つける前に辞める事にしました。
社長へ辞めることを告げた時の最後の言葉が
「君へいままで払った給与は全て無駄になった」
でした。
この人にとって社員はどうでもよく
お金が命。
お金を運んでくるクライアントが神
そんな価値観だったんだろうと
そのとき築きました。
人生が辛い?楽しく生きたい/オーストラリア人の妻から教わった日本人に必要な事【Part2】